ムジカ・ボヘミカ演奏会
チェコピアノ作品・演奏者による曲目解説
 
第20回〜
スメタナ 海辺にて Op.17
第21回演奏会(05/11/24)
 20才の頃からようやく音楽の勉強をはじめたスメタナ(1824-1884)は祖国の独立運動に刺激さ れ、熱烈な民主主義者となった。リストに強い影響を受け、今日では「チェコ近代音楽の父」といわれている。この曲は1861年、スメタナが初めてスウェー デンで海の風景を見て作曲した。多岐にわたる繊細で高度なテクニックが作品全体を通じて求められており、海の情景と、その美しく果てしなく続く動きは、ま るで絵画のようである。絶えず動くアルペジオは止まることのない海の波を表し、そこに浮かび上がる旋律は遠い故郷への思いをうたっているような哀愁を漂わ せる。曲全体を通して聴くと、スメタナの最も深い感情が流れているという印象を受ける。
スーク 6つのピアノ小品 Op.7より
第21回演奏会(05/11/24)
 ヨゼフ・スーク(1874-1935)は、中部ボヘミアの絵に描いたような美しい村クジェチョヴィツェ に生まれた。ここはまことに魅力のある場所で、その魅力と美しい風景故に、スークは自然への熱い思いを育んだ。そして彼が趣味で故郷を巡り歩いたことが、 多くの作品に特徴を与えた。スークの作品は非常に主観的で彼の内面や個人的な感情と印象、体験、気分などを私たちに垣間せてくれる。ドヴォルジャークの弟子 であったスークは後に、ドヴォルジャークの娘オティルカと結婚する。この曲はスークがチェコ四重奏団の第二ヴァイオリン奏者としてのキャリアを華々しくス タートさせた忙しい演奏期間中のしばしの休み中に作曲された。

第1曲 愛の歌
スークらしさとなる多くの要素がここに結集されている最重要作品の一つ。スークの作品のほとんどに見られる、旋律がアウフタクト(弱起)で始まるのが特徴。「愛の歌」の主題はスークにとって愛と生命力そのものの象徴となり、彼はこの主題を他の多くの作品の中で用いた。
第2曲 フモレスカ
息抜きの作品。軽やかで技巧を要しない可愛らしいワルツ。
第3曲 思い出
もともとはレーナウの詩による歌曲にするつもりだったが、スークは歌曲よりピアノの方がはるかに自分を表現できるため、ピアノ用に書き直したもの。まさに青春の思い出という感じの曲。
第4曲 2つの田園詩より 第1番
既に前年に書かれておりまだ青春時代の特徴をもっているために、全体の田園的雰囲気の中に憂鬱さと、ある種の悲壮感がこめられている。のどかな田園風景、幸せな家庭が目に浮かぶ。
第6曲
この曲も、3つの無言歌の第3曲「メロディー」として第4曲同様、以前に作曲されていた。イ短調で書かれているが、主題は絶えずヘ長調にかたむいており、最後の反復になってようやくイ短調に落ち着く。


ドヴォルジャーク 詩的な音画
第20回記念演奏会(04/11/30)
 全13曲からなるピアノ小品集「詩的な音画」は作曲家として円熟期にあっ たドヴォルジャーク(1841〜1904)によって1889年に作曲された。この作品は生地ネラホゼヴェスを訪れ、ロプコヴィツ侯の城内で歌劇「ジャコバ ン党員」の主題にもとづく即興演奏をした経験をまとめたものといわれている。ドヴォルジャーク自身が出版商にあてた手紙の 中で「シューマン風センスでの標題音楽」と書いているように絶対音楽から標題音楽への傾斜を見せはじめた作品としても注目され、全曲に標題がつけられてい る。第1曲「夜の道」は森の静けさと孤独な瞑想、第10曲「バッカナール」は収穫の喜びと感謝にわく村祭りのにぎわいが表現されている。


ヤナーチェク 草かげの小径にて 第2集
20回記念演奏会(04/11/30)
 ヤナーチェク(1854〜1921)のもっともポピュラーなピアノ曲「草かげの小径にて」は第1集10曲、第2集5曲の計15曲からなる組曲である。この作品はヤナーチェクの生地フクワルディで娘オルガと参加していた文化サー クル「アカシアの木の下の集い」での帰らざる日々の美しい思い出をつづったものである。第1集が出版された後、ヤナーチェクは第2集を作ろうと考えで きあがった3曲にヤナーチェクの死後彼の弟子シェーファーが独断で第1集から除外された2曲をつけ加え出版した。第1集の各曲には詩的題名がついているの に対し、第2集の各曲に題名はない。1.Andante 2.Allegretto 3.Piu mosso 4.Allegro〜Adagio 5.Vivo
モラヴィア民謡を採取し研究していたヤナーチェクらしい民族色の強い作品である。

スメタナ 夢

第20回記念演奏会(04/11/30)
  チェコを東西に大きく二つにわけると、西がボヘミアでその中心がチェコの首都プラハ、東がモラヴィアでその中心がチェ コ第二の都市ブルノである。チェコの国民楽派を代表する作曲家であるベドルジフ・スメタナ(1824〜1904)はボヘミアの東方にあるリトミシュルとい う町で生まれた。幼い時から音楽的才能をあらわし5歳の時にヴァイオリンで即興のワルツを弾き、6歳の時オペラの序曲をピアノに編曲して演奏したといわれ ている。8歳でギャロップを作曲し、これが残されている作品として一番古いものである。後に多くの交響詩とオペラを作ったが、その中でも交響詩『わが祖 国』の第2組曲のモルダウは代表作といわれるように度々演奏されている。また、ピアノ作品も多く作られているのは、スメタナ自身が素晴らしいピアニスト だったからであろう。
 19世紀にはヨーロッパ各地で民族独立運動が起こった。ボヘミアでも民族独立の気運が高まり、チェコ語の使用とチェコ文化復興の活動がさかんになり、ス メタナもチェコ民族のための音楽活動をおこなっていくのである。チェコの自然や民族舞曲の描写をとりいれながら、リストを思わせるような華やかでピアニス ティックな技巧を要求する作品を書いている。高校進学でプラハに行った折リストの演奏に初めて接して強い感動を受けたスメタナは、その後リストから強い影 響を受けることとなったのである。晩年は不幸にもベートーヴェンと同じように聴覚を失ってしまった。聴覚を取り戻すべく専門医の治療を受ける支えとなった のが彼の生徒たちであった。結果ははかばかしくなかったが、生徒たちに感謝の意をあらわし「夢」の6曲を作曲したのである。 過ぎ去った美しい日々の思い出をつづったもので、第2曲目は病気に対する哀れみや慰め、第3曲目ではチェコの田舎の美しい叙情的な風景や民謡を織り込み、 第4曲目はワルツ風のリズムで貴族社会の社交界の思い出を、第6曲目はチェコ民族舞曲のリズムとメロディーを用い、楽しい田舎のお祭りを描いた作品であ る。

ドヴォルジャーク スラヴ舞曲 Op.72 (連弾)
第20回演奏会(04/11/30)
 チェコの作曲家ドヴォルジャーク(1841〜1904)の「スラヴ舞曲」は、ブラームスの「ハンガリー舞曲」とともに 連弾の代名詞的な曲集として広く知られている。ドヴォルジャークの出世作である「スラヴ舞曲第1集」Op.46は、ブラームスの推薦によって、彼の「ハン ガリー舞曲」を出版して大成功を収めた経験を持つ、ベルリンのジムロック社から1878年に出版された。1886年には、ジムロックからの要請を受けるか たちで新たに第2集Op.72の8曲を作曲し、全2巻計16曲となる。ブラームスの「ハンガリー舞曲」も全2巻計21曲から成ることや、共に初めはピアノ連 弾曲として書かれ、のちに管弦楽用に編曲されているという経緯をもつことからも、この二つの舞曲集には少なからぬ共通項があるといえよう。
 「スラヴ舞曲」は第1集、第2集を通じて郷土色豊かな作品である。彼は民族的舞曲の特徴や表情を形成する最も基本的な要素である"舞曲のリズム"を根底 に置きながら、単に描写にとどまることなく自らのインスピレーションで独自の舞曲を創り出した。第1集の完成から8年を経て書かれた第2集では、第1集同 様の溌剌として喜びに満ちた陽気さを表出した舞曲以外に、より深い詩情や翳りのある情緒を湛えた舞曲がうまれている。また、第1集で用いたボヘミアの舞曲 の他に、ポーランド・ユーゴスラビアなど広くスラヴ全体の舞曲をとり上げており、より「スラヴ舞曲」と呼ぶにふさわしい作品 となっている。

第1番 オドゥゼメク(ロ短調)・・スロヴァキアの羊飼いや盗賊の伝統に由来するもので、しゃがんで跳ねる動きが特徴の踊り。
第2番 ドゥムカ(ホ短調)・・ウクライナの民族音楽の一つ。哀愁に満ちたメランコリックな歌。
第3番 スコチナー(ヘ長調)・・跳躍するステップを持つボヘミアの急速な舞曲。
第8番 ソウセツカー(変イ長調)・・レントラー風でよりゆるやかなボヘミアの踊り。
第7番 コロ(ハ長調)・・ユーゴスラビアの輪になっておどる舞曲。


マルティヌー 3つのチェコ舞曲 (2台ピアノ) 
第20回記念演奏会(04/11/30)
 ボヘミアの古い町、ポリチカで生まれたボフスラフ・マルティヌー(1890〜1959)は、その生没年が語っているよ うに二つの大戦を経験しており、同時代の優れた芸術家たちがそうであったように、彼もまた抗い難い時代の波に翻弄された。最初ヴァイオリニストとして出発 したマルティヌーだが、幼い頃から作曲の才能も示し、12歳で現存する最も早い作品を残している。その後プラハ音楽院でドヴォルジャークの娘婿にあたる スークに学び、一時期はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団でヴァイオリンを弾いていた時期もあったが、1923年33歳の時にパリに留学、作曲家として頭 角を現すようになった。しかし、次第にヨーロッパには不穏な空気が流れ、ナチスのチェコ圧迫が強まる中、1938年48歳の時の帰省を最後に二度と故郷の 土を踏むことはなかった。
 この3つの「チェコ舞曲」は、1949年マルティヌー59才の時、ナチスに追われ亡命したアメリカで書かれた もので、この頃から彼は、戦争の恐ろしさ、悲惨さをうたいあげた反戦的な創作を次々と発表している。この曲の題名が示す通り、故国チェコの舞曲リズムによ る3楽章のソナタのような趣を呈しており、全曲は主に調性的な書法がとられ、パリ留学時代に学んだとされる印象主義の手法や渡米時代に接したジャズの影響 も随所に見られる親しみやすい曲想になっている。2台のピアノのリズムの組み合わせが巧妙かつ精緻で、2台のピアノというアンサンブルの特性を充分に生か した演奏効果の華やかな曲である。第1曲(アレグロ)は、冒頭の2台のピアノのトゥッティによる非常に力強く鋭い付点リズムが印象的である。全体は主にこ の付点リズム・モティーフに支配されており、エネルギッシュに曲が展開する。第2曲(アンダンテ・モデラート)は、一転して牧歌的でおおらかな雰囲気で始 まるが、途中ジャズ風なリズムや印象主義的な書法を交えながら、多調的な響きのクライマックスに達する。第3曲(アレグロ)はトッカータ風の演奏効果の華 やかな曲である。第2主題では2台のピアノがひとつの旋律線をかけあいながら演奏し、あたかもステレオの様な効果が得られる。中間部にはカノンによる動き や民族舞曲的なリズムも現れ、多彩である。コーダは大変輝かしく熱狂的で、興奮のうちに曲を閉じる。